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人生朝露

人生朝露

荘子の処世と、価値のない木。

はい。

悪かったわね!
荘子で。

今日は、まずは、山木篇から、

『莊子行於山中、見大木、枝葉盛茂、伐木者止其旁而不取也。問其故。曰「無所可用。」莊子曰「此木以不材得終其天年。」夫子出於山、舍於故人之家。故人喜、命豎子殺雁而烹之。豎子請曰「其一能鳴、其一不能鳴、請奚殺?」主人曰「殺不能鳴者。」明日、弟子問於莊子曰「昨日山中之木、以不材得終其天年。今主人之雁、以不材死。先生將何處?莊子笑曰「周將處乎材與不材之間。材與不材之間、似之而非也、故未免乎累。若夫乘道徳而浮游則不然。無譽無謗、一龍一蛇、與時倶化、而無肯專為、一上一下、以和為量、浮游乎萬物之祖、物物而不物於物、則胡可得而累邪。此黄帝、神農之法則也。若夫萬物之情、人倫之傳、則不然。合則離、成則毀、廉則挫、尊則議、有為則虧、賢則謀、不肖則欺、胡可得而必乎哉?悲夫!弟子志之、其唯道徳之郷乎!』(『荘子』三木第二十)
→荘子は弟子とともに山中に入り、生い茂った大木を見つけた。樵達は、その木を切り倒そうとはしない。樵にその理由を尋ねると、「あの木は役に立たないから、ほったらかしているんだ。」という。荘子は「見るがいい、あの木は役に立たないがゆえに、天寿を全うすることができるのだ。」その後、彼らは山を降り、知人の家にやっかいになった。古い友人は喜び、雁を殺してご馳走しようとした。召使が「鳴く雁と鳴かない雁がおりますが、どちらを殺しましょう?」主人は「鳴かないほうを殺しておこうか」というやりとりしていた。翌日、弟子が荘子に質問した「役に立たない大木は天寿を全うしたのに、鳴かない鳥は殺されてしまうんですね。先生はどこにこの世のどこに処りどころがあるとお思いですか?」。荘子は笑って言った。「じゃあ私は、役に立つものと、役に立たないものの真ん中に居てしまおうか。しかし、真ん中にいるというのは、決して本当の道ではない。世の中の煩わしさから逃れることはできないだろうよ。役に立つものと立たないものの価値を超えて、俗世から抜け出すほどではなければな。あるときは龍のように、あるときは蛇のように、時の流れに乗って、ひとつ事に執着しない。上に、下に、動きながら、一つの場所に囚われず、和を以って自らの度量とする。物を物として使い、物に支配されないようになれば、世の中の煩いから逃れられうだろう。世の中のありさまや、人の常ある様子は、それとは違うのだ。出会いがあれば別れがあり、成功があれば失敗があり、真面目だと角を挫かれ、高い位のものは批判され、何かをしようとすれば妨げられ、賢明であると謀略にあい、暗愚であると詐欺にあう。この世の煩わしさから逃れようとしても、物とらわれていると、どうしようもないな。悲しむべきことだよ。弟子たちよ、記しておけ。ただ、道徳の郷のみだと。」

・・・ああ、これなんだなぁと。一番どうでもいいのが「鳴かぬなら殺してしまおう」ですが(笑)、今でも「処世術」という言葉で日本人が使っている「処世」というのは、荘子の「山木篇」に由来します。

南榮麩曰「不知乎、人謂我朱愚。知乎、反愁我躯。不仁則害人、仁則反愁我身。不義則傷彼、義則反愁我已。我安逃此而可?此三言者、麩之所患也、願因楚而問之。」老子曰「向吾見若眉睫之間、吾因以得汝矣、今汝又言而信之。若規規然若喪父母、掲竿而求諸海也。女亡人哉。惘惘乎汝欲反汝情性而無由入、可憐哉。」(『荘子』庚桑楚第二十三)
→「無知であれば人は私を馬鹿だと言うでしょう。知恵があったとしても、わが身に災いがふりかかることもあります。思いやりがなければ、人を害するでしょうし、思いやりがありすぎても、わが身を害することもあります。不義であれば他人を傷つけるでしょうし、正義であったとしてもわが身を滅ぼすことになります。どこに安らぎがあるというのでしょう。この三つの事柄が、私を悩ますのです。どうか、お答えいただけませんか?」老子は言った。「(中略)お前はあたふたとして、まるで、大きな海原に棹を立てて、失った父母を必死に捜し求める子供のようだ。お前は帰るべき場所を失ったのだな。己を見失って、帰るべき場所の入り口も分からなくなってしまったのだ。哀れなことだ。」

夏目漱石。
「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(夏目漱石『草枕』より)

棹も角も「荘子」にあります。

こういうのが「処世」ですね。

Heidegger!
ハイデガーがパクッた(笑)。世間における私。

>二十世紀の重要な哲学の一つに実存主義があります。実存を語る時、誰もが使う「世界的内在」という概念があるのです。これはハイデガーが使ったドイツ語「Das In-der-Welt-Sein」の訳として私たちの先輩たちがこんな風にしたものですから、まるでハイデガーの造語のように日本でも思われていますけど、実は荘周(荘子)の「処世」という術語の間接的なドイツ訳なのです。(「一哲学者の歩んだ道(第三回)--二十世紀の終わりに」より引用)

>シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる。(『茶の本』岡倉天心著)

参照:ハイデガーと荘子 その3。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022

山木篇で、荘子は「世の中の真ん中でいい」と笑いながら言っていますが、これは、

聖徳太子です。
十にいわく。心の中の怒りを断ち、表情にも怒りを表さないように。他人と自分が違っていても怒ってはならない。人の数だけの違う考えがあり、他人は他人でこうだと思っていることがある。彼は自分ではない。自分もまた彼ではない。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚鈍だというわけではない。皆共に凡人である。そもそも、是非などというものの判断を誰が出来るのだろう。だれでも皆、賢くもあり愚かでもある。ちょうど耳輪(ピアス)に端っこがないようなものだ。だからこそ、相手が怒っていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかと顧みなさい。自分一人はこうだと思っていたとしても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

十七条憲法の十条とも似ていますね(読み返したところ、この条文はほぼ全て荘子から引っ張ってきています)、これを読み解いた聖徳太子も偉いわ。今でも丸のまんま日本人だ(笑)。

参照:当ブログ 聖徳太子と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5004

いかにしてこの世の中を生きていくか?

ん~ちょっとここで、回り道。

-----(以下引用)------------------------------------------------------

 こんにちは、筑紫哲也です。

 「そのまんま東現象」で宮崎県に東国原英夫知事が誕生した直後、私は現地に出かけ新知事をインタビューしました。
 東国原知事は、私の教えていた大学院の学生たちが彼の選挙マニフェスト作りに参画していたり、教え子のひとりが宮崎県の出身(のちに県議)で、彼の支持者、という縁もあって、彼に対して個人的な親近感は持っていましたが、取材は取材。聞くべきことはきちんと聞いたつもりです。しかし、取材が終わると、私は思わず知事への「陳情者」になってしまいました。
 「綾町(あやちょう)をよろしく」
 というのが陳情の主旨でした。

 かつて、ある雑誌の「日本で一番美しいと思うもの」というアンケートで、私が答えた土地の名は、宮崎県の綾町でした。しかし、今回の知事選挙での得票数を見る限り、綾町が新知事にそれほど「協力的」だったとは言えませんでした。ゆえに、「それでもよろしく」と念を押したのです。
 では、何を「よろしく」と言おうとしたのか。それは、綾町に奇跡的に残っている照葉樹林のことです。
 かつて、私たちのくにの半分以上は、照葉樹(常緑広葉樹)に覆われていたと推定されていますが、現在は国土のわずか1.6%(約60万ヘクタール)。しかも、それらは全国各地に散在しているにすぎず、唯一綾町にのみまとまったかたちで残っているのです。 照葉樹がかつてそんなに国土を覆っていたということは、私たちの生活文化はそこから生まれた、と考えてもおかしくないでしょう。
 英語では、陶器を「チャイナ」(「china」中国)と呼ぶように、漆器は「ジャパン」(「japan」日本)と呼びますが、樹木から漆を採って塗るという文化は、まさに照葉樹林が生んだものです。焼き畑農業で育てた大豆を酒、味噌、醤油にする発酵文化や、森に生息する蚕の繭から紡ぎ出す絹の文化も同様です。  しかし、そんなウンチクを語るよりも、一度綾の森に出かけて、「照る葉」のなかに身を置いてみてください。それがどんなに快いものであるかがわかるでしょう。
 綾町の照葉樹林の奇跡は、先験的な地域指導者、郷田實(ごうだみのる、元綾町長、故人)氏を抜きにしては語れないのですが、2005年からは、官民がいっしょになり、綾町を起点に11市町・約1万ヘクタールの国有林と県有林、町有林で、照葉樹林の「緑の回廊」を作ろうという計画が始まっています。この計画は、100年かけて照葉樹林を保護、復元しようという壮大な夢です。今年の3月25日には、林野庁が、綾の森の中心部分(1167ヘクタール)を「森林生態系保護地域」に指定しました。このお墨付きにより、少なくとも伐採や開発の手からは守られます。
 ところで、みなさんは森の中に入って、自然のふところに抱かれたような感覚を味わった経験がありますか。 私が綾の森によく似た心地よさを味わったのは白神山地(青森県~秋田県)でした。そう、わが国初の世界遺産のひとつとなった、ブナの原生林です。
 ところが、ブナは漢字では「きへんに無」と書きます。何も役に立たない木、と見なされたからだそうです。
 同様に、照葉樹林も「雑木林」と呼ばれ、まるで木に名前がないかのような扱いを受けてきました。 私は前から、一方が世界遺産になったのだから、もうひとつも選ばれて当然、と言い続けています。
----------------------------------------------------(引用終わり)-----

>ところが、ブナは漢字では「きへんに無」と書きます。何も役に立たない木、と見なされたからだそうです。
>同様に、照葉樹林も「雑木林」と呼ばれ、まるで木に名前がないかのような扱いを受けてきました。

・・役に立つとか、立たないとか。ま、綾町は綾町でやっていけるけどね。むしろ他をどげんかせんといかんわけで。

Zhuangzi
「弟子志之、其唯道徳之郷乎。」
弟子たちよ、記しておけ。ただ、道徳の郷のみだと。

参照:始終至知への旅  第21回 綾の森をよろしく 筑紫哲也
http://www.burat.jp/public/shijyu/20080421.html

もうすぐ、一年です。この文章は、闘病中のころのものでしょう。

筑紫さんは、統○教会を批判したばっかりに、キチガ○どもに20年も難癖をつけられておりましたが、やっぱり、分かっている人は分かっている。こういう文脈をたどれる人がいなくなって久しいです。いい人ばかりが先に逝く。

天道、是か非か。(司馬遷)

今日はこの辺で。


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